マイケル・リン

弊社製品を生産してもらっている、台湾 Pacific Cycles

社の社長「マイケル・リン」氏が、今年2025年1月9日にお亡くなりになりました。
享年56歳、本当に早すぎる生涯でした・・・
とても悲しい出来事ではありましたが、彼の事を記録しておきたとの思いから、今回は「マイケル・リン」氏に関するお話をしたいと思います。

彼との最初の出会いは、当ブログの最初期に掲載した、2000年の「東京国際自転車展」で、Type FOLDING のプロトタイプを、「カドワキコーティング」さんのブースに展示した際に、彼の父親で、当時の Pacific Cycles 社社長だった「ジョージ・リン」氏御一行の、メンバーの一人としてでした。

略歴

台湾の中学校を卒業後、15歳で単身アメリカへ留学して、高校、大学、大学院までをアメリカで過ごします。
専攻は、「経済学」と「コンピューターサイエンス」でした。
1997年に台湾へ帰国後は、父親の起業した Pacific Cycles 社に入社します。
書道の腕前も相当なもので、その達筆さはプロ顔負けです。

第一印象、からの・・・

出会ったばかりのころの彼の第一印象は、正直決して「良いもの」ではありませんでした。
典型的な「お坊ちゃま」感があり、父親であるジョージさんとのギャップに、驚いたことを記憶しています。
ところが、出会ってから1年位経ったある時、Pacific Cycles社を生産立ち合いの為訪問した際に、別人の様にテキパキと情熱的に仕事をするマイケルを観て、「いったい彼に、何が起きたの?」と、思わずジョージさんに尋ねてしまう程の変容を遂げていました。
ジョージさんの答えは「わからん。」でした。

その後は、私の4歳年下と、世代も近く、物事に対する価値観も似ていたこともあり、会う度に様々な、本当に様々な会話を交わす中で、どんどんと親しくなり、お互いに言いたい事を言い合える、親友と言うか、兄弟のような感覚の付き合いになっていきました。

抜群のビジネス感覚

ジョージさんの引退後、名実ともに Pacific Cycles 社の経営を引き継ぎ、様々な新たな設備投資や、新規顧客の開拓、新規ビジネスパートナーとの協業などを積極的に断行して、一気に同社のビジネス規模を拡大していきました。
「一体、お前の頭の中は、どんな構造になってるの?」と、何度も訪ねてしまったほど、革新的で素晴らしいアイデアを、次々に生み出す姿を傍で観られたのは、とても幸運な事だったと、改めて思います。

ストーリーテーラー

2001年の起業後、英語を話し始めたばかりだった私にとって、彼の話す英語は、とても聞き取り易く、独特の抑揚のある彼の話し方を、意識して積極的に真似することで、私自身が英語に慣れていきました。
ただ、ちょっとした些細な事でも、周りを大爆笑に繋げていく、彼の「ストーリーテーラー」としての、ずば抜けたセンスと才能は、どうあがいてもまねる事は不可能だとも思いました。
この才能は、後に Pacific Cycles 社を大きく飛躍させていった事の、大きな要因だったのではないかと、私は思っています。

数多くの海外出張

そんなマイケルと、数多くの海外出張に同行した事も、今の私を形作る、とても大きな経験であり、大切な財産となっています。
勿論、数多くの人脈や技術的な知識を入手出来たことは、言うまでもありませんが、何より彼の持つ「ユーモアのセンス」による思い出は圧倒的で、2002年のケルンショー出展の後、ダルムシュタットにある「r&m」社での打合せ後、二入で深夜1時頃ダルムシュタット発の寝台列車で、次の週末のミラノショー出展に向かった、ミラノへの「寝台列車旅」。
以前こちらのブロブにも書いた2004年の「アメリカ西海岸のロードトリップ」など、枚挙にいとまがありません。

中でも印象深いのは、2010年に行った私にとって初の「ニューヨーク」出張で、私を含め同行した4人で、シーフードバッフェに、夕食に行った際に、彼の大好物だという「カニ」のアメリカ流の食べ方を、我々に披露して、「本気か?」と言いたくなる位の量の「カニ」を、たっぷりの「溶かしバター」にくぐらせては、食べに食べた、その夜の事です。
マンハッタンのホテルで、同室に寝ていた私は、隣のベッドで寝ていた彼の「うなされ声」で目が覚めました。
部屋の明かりをつけ、「大丈夫か?」と声を掛けて起こすと、「あ~~。酷い夢を見た!」
「酷く、うなされたで。」と私。
「メチャクチャ巨大なカニに追い掛け回されて、必死に逃げ回ってたんだよ!!」とマイケル。
真夜中のホテルで、二人で腹がよじれるほど大爆笑しました。

その後は、「カニに、襲われるで~」が、二人だけに通じるギャグになりました。

「谷川岳」のそば

海外だけではなく、彼が日本に来た際も数多くの思い出がありますが、中でも印象的なのは「子供達に、雪を見せたい。」とのリクエストから、2011年1月に上越にある「キューピットバレイ」への2泊3日のスキーバスツアーを申し込み、来日したマイケル一家と私の6人で参加した時のことです。
東京駅を夜10時頃に出発して、明け方ゲレンデに到着する高速バスに乗り向かったのですが、関越道の途中、夜中の3時頃に休憩で停車した「谷川岳」サービスエリアで、寝ている他の家族を残して、マイケルと私の二人でバスを降り、極寒の中食べた、当時、私のおすすめだった、ここの「立ち食いそば」の味が、その後もずっと忘れられなかった様で、「あの時食べた、あの ‘そば’ が、人生最高のそばだよ。」と、何度も聞かされました。

「Studio Design Team:」から「Section Zero」へ

Pacific Cycles社の自社製品のデザインから、社外から持ち込まれる様々な新規開発案件に対応するために、「社内にデザインセクションを設けたい。」との、マイケルの要望により、「マイケル」と「ライアン・キャロル」、わたし「吉松」の3人で、2009年にPacific Cycles社社内に設けられた、社内デザインハウスが、「Studio Design Team:」でした。
その後、幾度かのメンバーチェンジを経て、現在の「Section Zero」へと繋がっています。

友よ

このブログを書くにあたり、改めて彼の写っている写真を数多く見返しましたが、いつも「いい顔で笑っている」写真ばかりです。
信じられないことではありますが、そんな彼は、もうこの世に居ません。
心からの敬愛を込めて、この言葉を送ります。
「友よ! 安らかに眠れ。」