なぜ自転車(?)だったのか
「なぜ自転車を作ったんですか?」
よく、この様なご質問をいただきます。
元々、私は自転車のプロフェッショナルではありません。
自転車の、ヘビーな愛好家でもありませんでした。
そんな私が、なぜ「Tartaruga」を開発したのか。
この辺の話を、私の自転車遍歴と共にお話したいと思います。
私は高校卒業までの18年間を、生まれ故郷鹿児島の、山と川しかない小さな町で過ごしました。
上の画像が、私の育った鹿児島の実家から見える風景です。
高校に入学して原付免許を取得するまで、私のもっぱらの足は自転車でした。
最初の自転車は、叔父から買ってもらった20インチくらいの子供用自転車でした。
猛特訓の末、青タンだらけになりながら、こいつで自転車を覚えました。
でも、すぐに壊れてしまいます。
次の自転車は、近所のおじさんからもらった、お古の実用車でした。
恐らく元の色は紫色だったと思われる車体は、あちらこちら錆びて、かなり傷んでいました。
これをシルバーの缶スプレーを使い、自分で塗装してリ・サイクルしました。
今思うと、ムラだらけのお粗末な塗装でしたが、当時の私にはとてもいい仕事に思えました。
銀色になったこいつで、土日は友達とよく連れ立って、遠くの川や海まで、魚釣りに出かけました。
距離にして、片道20kmくらいの道のりだったと思います。
変速機なんて付いていなかったので、登りは思いっきり、しんどかったのを今でも覚えています。
中学校は自転車通学でした。
中学校進学と同時に、通学用自転車を買ってもらいました。
当時、「三浦友和」のCMで “FF” と言う変速システムが大流行していて、同じく大流行していたスーパーカーの影響からか、前後油圧式ディスクブレーキ、フロントリトラクタブルヘッドライト、流れるリアコンビネーションフラッシャー(単一乾電池が、10本位入っていて、よく液漏れを起こしていました。)、果ては電動H字タイプシフターなど、今では想像も尽かない程、豪華(&バカバカしい)装備を誇る通学用自転車の全盛期でした。
自分も御多分に漏れず、この類いの自転車が欲しくて、欲しくてしょうがなかったのですが、実家が商売をしていた関係で、親父の付き合いのある業者から購入した、“FF” では無い何の変哲もない、5段変速のジュニアスポーツ車になってしまいます。
当時、友達が本当にうらやましかったです・・・・・
高校へは原付と電車で通いました。
高校への通学には、従兄から譲ってもらった「ホンダ・モンキー」に乗っていた事もあり、高校入学以降の約10年間は、自転車との縁がぷっつりと途切れてしまいます。
その間、進学、上京、就職、マイカー購入を経て、MTBを購入します。
元来アウトドア(故郷での遊びは、意識の如何に関係無く、全てアウトドアでの遊びでした。)好きで、キャンプ好きだった私は、キャンプ先での林道ツーリングなど、行動範囲を広げる為、「マウンテンキャット」をセミオーダーして手に入れました。
ここまでの自転車との付き合いは、あくまでライトな付き合いでした。
発売前の「ホンダ・ラクーンコンポ」との出会。
たまたま、青山のホンダ本社に遊びに行った際、偶然目にした発売前の“赤い”こいつのインパクトは相当な物で、即予約購入しました。
電動アシストの機能はもとより、すっきりしたデザインと質感の高さは、所有欲を掻き立て、セダンのトランクにも入るシンプルな折り畳み機構による、使用範囲の広がりは、自転車に対する私の価値観を、すっかり書き換えてしまいます。
自動車と違い、駐車場の心配はもとより、どんな裏道や小道でも通りぬける小回りの良さは、「こんな処に、こんなお店があったんだ!」的な、生活圏の中の新たな発見をもたらすと共に、生活そのものを、満ち足りたものにしてくれ、まさにヒューマンサイズの乗り物の楽しさと可能性を、実感する事となります。
当時、アミューズメントマシンの開発に携わり、バーチャルワールドの演出にどっぷりと浸かっていていた自分には、この感覚はとても新鮮に映りました。
自分なら、もっと面白い人力の乗り物を作れると思った。
さらに自分なら、長年培ったアミューズメントマシン開発のノウハウを活かし、もっともっと面白い、乗ってワクワクするヒューマンパワー(人力)の乗り物を作れる、とも思いました。
これが、「Tartaruga」開発に至った経緯です。
この思いが成就したかどうかは、とにかく一度 弊社製品 にまたがり、乗ってみてください。
タルタルーガ・エンターテイメントワークスは、デザイン事務所です。
いまでも私は、自転車のプロフェッショナルではありません。
「乗ってワクワクする乗物」を作っています。
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